こんな高校生活があるだろうか・・・。閉ざされた山の中の学校は、暴力に次ぐ暴力、脱走に次ぐ脱走というこの世の物とは思えない生活があった。
ダウンタウン浜田雅功が「地獄」と表現した日生学園第二高校を卒業した年に私は入学した。見聞きはしていたものの、待っていたのは想像をはるかに超える、旧式軍隊さながらの生活。「懲役3年」と言われながらも、なんとか生き抜いた日生学園の3年間を振り返る。
マラソンは何のため?
記事の中でも再三「マラソン」と書いているが、これが何のために、いつ頃から始まったのか私は知らない。教えてもらったかもしれないが、そんな事は覚えておらず、入学してから毎日のように走らされていた。
日生学園第二高校は学校棟から校門まで片道2㎞か3㎞近くあった。放課後のマラソンは校門までの往復だったのだが、何度も書いている通り学校は山の中である。片側1車線づつで、センターラインも引いてある立派な道路だが、平らな区間はほんの少ししかない。
そこを走ると言っても、各々が勝手に走って校門で折り返して来る物ではない。部屋ごとに分かれ、縦横の隊列と、足並みを合わせて走る。そして「ワッショイ」の掛け声。最早マラソンではない。
どこの国の軍隊でも、舗装されているとは言え、山の中でここまで訓練していないのではないか?そんな事さえ思ってしまう内容だが、日生学園ではほぼ毎日行われていた。
体力増強のためではない。ただ、全力で立ち向かう姿勢を養うため。と思えるのだが、当時も今も、何の役にも立っていないと思える。走るのが早くなったわけでもなく、どこかの会社などに、マラソンでスカウトされた事も無い。そして、個人差のある体力を使って、隊列、足並みを揃えて走る事が、全力で立ち向かっているとはならない事を実感した。
走る事が得意ではない人にしてみれば、ただでさえプレッシャーなのに、隊列や足並みを揃えないといけないなんて、それだけでも「過呼吸」になるぐらいプレッシャーだ。部屋単位で走るので、先輩だっている。
走るペースが人と違えば、足並みだってズレる時がある。登り坂などでは遅れるヤツも出て来る。それらも許されない。足並みが違うから、前や後ろの人の足に当たり、躓くヤツもいる。後ろから先輩に背中を押されてながら走るヤツもいる。それを乗り越えるのが「不屈の精神」と言っていたが、違うと思う。
数か月ごとだったと思うが、「マラソン大会」なるものがあり、学校中の道路を走って順位を競う行事があった。強制的にやらされているマラソンを、競技にして順位をつける。となると、なぜか寮単位、或いは階単位で対抗意識が出来て「あそこには負けない!」という事になる。
それほど日生学園には娯楽がない。嫌でもそういうレースに乗らなければならない。負けないためにはどうするか?答えは簡単だ。「特訓」である。
普段の校門往復を繰り返したり、学校中をマラソンで引き連れ回されたり、グラウンドを何十週もしたり、目的がブレまくっている。「ブレる」とはどういう事か?というと、マラソン大会は「よ~いドン」で決められたコースを「個人個人が走って」ゴールを目指す。そこには隊列も、足並みもない。毎日のマラソンが何の役にも立っていない行事だ。
もちろん、誰もがわかっている事なので、普通のマラソンだけでなく、学校内で一番きつい坂道を何本もダッシュしたりする事もしていた。しかし、狙いとしては、「全力で走って、結果として順位をつけ、その順位を次回はどうするのか?そのためにどう自分を磨くのか?」といったところだろう。3年間いた私でさえ、言われなくても、「そう言う理想ばっかり言うんやろうな・・・」とわかってしまう。
毎日のマラソンと、マラソン大会。似ているようで、違うと思える目的。そしてそれに対する教師や先輩の向かい方。ちぐはぐな事ばかりな日生学園だが、「慣れ」というのは恐ろしい。誰もが気づかないフリしてしまう。そして「特訓」という名の「しごき」が行われる。
こんな理由もあって、私はマラソンが大嫌いだった。暑い夏も、寒い冬も、雨でも、小雪が降る中でもマラソンはあって、滅多な事がなければほぼ毎日だった。上に書いた特訓の時でも、水すら飲めないのだから・・・。3年生にもなると、私は理由をつけて、たまにサボったりしていたが、最後まで意義を見出せなかった行事の1つがマラソンだった。
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