日生学園 残酷物語 7

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日生学園「残酷物語」
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こんな高校生活があるだろうか・・・。閉ざされた山の中の学校は、暴力に次ぐ暴力、脱走に次ぐ脱走というこの世の物とは思えない生活があった。

ダウンタウン浜田雅功が「地獄」と表現した日生学園第二高校を卒業した年に私は入学した。見聞きはしていたものの、待っていたのは想像をはるかに超える、旧式軍隊さながらの生活。「懲役3年」と言われながらも、なんとか生き抜いた日生学園の3年間を振り返る。

日生学園の独特な言葉や言い方

日生学園には多くの「日生語」のようなものがあった。第一や第三でももちろんあっただろうし、我々第二と同じ言葉、使い方の言葉もあったと思う。今回は、第二高校での言葉を紹介したい。

「ワッショイ」

全力心行の事を指していた。見ての通り掛け声なのだが、全力心行をする時に使う掛け声が元。生徒間では「心行」はあまり使われず、こちらの方が多かったと思う。便所掃除も心行のカテゴリーなので、「便所ワッショイ」といっていたし、心行に行く前に「ワッショイ準備して集合」という使われ方だった。

「団訓」

団体訓練の事。我々の当時はあまりされていなかったが、団体訓練といって全校生徒が縦・横の隊列を揃え、階単位でグラウンドを周回し、最後は全員がトラック内に整列し「全力体操」を行う。最後の寮の階が入るまで、先頭の寮の階は「その場駆け足」で待つ事になるが、足を上げる高さも揃えないといけないので、かなりしんどい。全力体操は男子は上半身裸で行うが、日本体育大学の「エッサッサ」に似ている。当初は団体生活を行う上で、規律や行動を統制するための訓練なのかもしれないが、我々の時は初代校長の青田強氏に、全力でやっている事を見せるために行う物という認識になっていた気がする。学校が大きくなり、常に生徒の生活を垣間見る事さえ時間がない青田強氏が来る時は、教師含めた全校生徒がピリピリしていた。

「道場」

体育館の事。心行が行われる場所なので道場と言われる。入口にも「道場」と書かれた看板があった。2階には柔道場と剣道場があり、部活動で使われていた。

「ピロティ」

日生学園本部や教室、食堂がある学校棟の真ん中にある広場。寮に帰る際もここに階単位で集合し、隊列揃えて駆け足で帰る。マラソンの時も、ここから同じように出発する。

「しょうつけ・つけ・すめ」

号令なのだが、利用頻度が高い。単に整列時の「気を付け・休め」なのだが、頻度が多いため、気を付けを略した言い方が「つけ」になる。部屋単位ではこれでいいが、それより多くなると、部屋単位なのか寮単位なのかわらりづらいので「全部一緒にきをつけ」となり、その略が「しょうつけ」となる。休めは「すめ」と略す。気を付けの際は足を踏み鳴らし、腕を腿にビシッとたたむので音が凄い。

「集合」

これも文字通りなのだが、団体行動が基本の日生学園では、「集合・解散」の繰り返しだ。個人を呼ぶ時でさえ使う。下級生対象ではあるが、「おい、○○集合」のように、「ちょっと来い」はあまり使われていなかった。寮単位、階単位、部屋単位で行動する事が多いため、多人数対応のためには集合が都合がいいと思われ、各階に置かれ、まとめ役の学寮長の「3階、フロア集合」などの号令は1日に何回もある。ちなみに個人を呼ぶ際の集合は、良くない内容の時に使われる事が多い気がする。普通は名字だけ、それに集合がプラスされると、小言言われるか、怒られるか、いじめられる時だった。

「チンコロ」

告げ口の事で、「チクる」も使われていてた。

「オールナイト○○」

徹夜で何かを行う事で、誰でも知っている言葉かもしれないが、日生学園では「やらされる」事を指す。○○には正座・ワッショイ・按摩などが入る。按摩とはマッサージの事だが、先輩が下級生にやらせる事が多かった。いずれも「寝てしまったらやめても気づかない」ので、途中で終わる事になるのだが「もう寝たかな・・・」と思って止めると、「誰がやめていいって言うた?」という事も・・・。3年生ともなると夜なかなか寝ない人が多い。これは、「みんなが起きている時間に寝ているから」である。日生学園の生活を熟知している3年生は、授業中や自習時間などサボって寝ていてもバレない時間や場所を知っているし、1年生という「見張り役」がいるので、自由だからだ。授業なら教師が通ってくる人で、「チンコロ」しない人が誰かを知っているし、夜の自習時間であれば、寮監が見回りに来た時に1年生が知らせてくれる。朝の心行をサボりまくっていた人もいたぐらいだった。

「ブッチ」

サボる事。「ぶっちぎる」という言葉が由来だと思われるが、「逃げる」時にもぶっちぎるという言葉が使われる地方もあり、日本中から生徒が集まっている日生学園なので、逃げる・振り切るなどの意味が派生して使われるようになった言葉だと思う。

「エゴる」

一人、または数人で違反物のお菓子など隠し持っていて、それを食べたりする事。自分だけの利益や欲求を満たすための行為だが、団体生活の場ではこういった「抜け駆け」的な事はエゴとされていた。初代校長の青田強氏が、自分自身を甘やかす事を「エゴ」と言っていた事が由来と思われる。他に「エゴ飯」と言うのもあって、食堂以外の場所でたべる食事の事なのだが、これは、病気などで就寝者がいる場合、食堂へ行けないので寮へ持ってきてもらう事があった。結局、食べられないなどの理由から、残った手つかずのおかずなどを食べる事を言っていた。たまにプリンが出ると前項でも書いたが、そういう「貴重品」が配られた時は必ず、下級生から「巻き上げる」先輩がいて、いくつもストックしておいて、好きな時に食べる事も「エゴる」と言っていた。

「権力者」

各学年の中でも、喧嘩の強い奴がいて、そういう「やんちゃ」な人達の事を指しているが、表立って権力者とは言われない。全生徒が山の中の1つの学校で生活しているので、〇年〇組の○○で話がわかる。学年で何人もいるのだが、そもそもクラスも10近くあって、それぞれに2、3人いるクラスもあれば、1人もいないクラスもあった。寮に帰れば上級生がいるので、話がまた変わってくるのだが、そういった人達は3年生に1目置かれていたし、庇護され、可愛がられ、「特権」を与えられていた人もいた。これとは別で、階をまとめる「学寮長」と「副学寮長」がおり、彼らは階の人全員に号令、指示を出す人で、教師からの信頼が厚い人達で、彼らの意思次第で階を動かしていたので、そういう意味での「権力者」でもある。ちなみに、やんちゃな権力者達は、学寮長の号令、指示を聞いたり、聞かなかったりと自由だったが、協力するべき時はちゃんと協力する。それはつらい、苦しい時をここまで一緒に頑張ってきた「同志」だからだ。

「ウメ」

タバコの隠語。日生学園は団体行動が基本なので、誰が聞いているかわからない。しかも、見つかって自分に来る責任は大きい。そのため一発退場の危険のある違反物は、隠語を使っていた。ただ、生徒達はほぼ全員理解しており、「チンコロ」されるかどうかの方が課題であった。そういった側面もあるので、「権力者」達はいろんな方面に最大限の圧力をかけ、逆らえない状況を作らざるを得なかった。また、リスク管理もされており、自分で違反物を持つ事はせず、後輩にもたすか、考えもつかない場所に隠している。逆に言えば、持たされている2年生や1年生は、庇護されるばかりか、「おこぼれ」をもらえたりするので、「エゴる」事に関しては「winwin」の関係だったかもしれない。もちろん、見つかれば、先輩の物であっても、「自分の物」として自爆する事となる。

「テッカリ」

ライターの隠語。タバコがあればライターも必要である。今のように電子タバコは無い時代なので、必需品だ。ただ、ライターも100円ライターとかは壊れたり、ガスがなくなれば使えなくなる。そのため、マッチを持っていたりする。それも無い場合、「日生学園の生徒はもしかしたら天才なのか?」と思うような力を発揮し、どこで習ったのか、コンセントから火を発生させて使う。方法としては、コンセントの穴両方にそれぞれシャーペンの芯を差し込み、突き出た状態のシャーペンの芯両方に乗るように横向きにもう1本乗せる。シャーペンの芯に含まれる鉛などの伝導体がショートする事で、発火させる。この時、ティッシュも同時に乗せると、一気に燃え上がり、簡易ライターとなる。

「ツボを踏む」

違反物を持っているのがバレたり、「ブッチ」しているのがバレたりと、問題というか事件を起こす事を言う。「ドツボにはまる」が語源だと思うが、「地雷を踏む」という言葉の合成だと思う。いつの頃から使っているのかわからないが、みんな使っていたと思う。「○○がツボ踏んだ!」とか、「あんな事してたら、あいつら絶対ツボ踏むわ」という使い方をするが、誰かがツボを踏むと、一瞬、緊張が走る。「連帯責任大好き日生学園」では、どんな波及のし方をするか予測不能で、自分達にまで及ぶ事を恐れる。場合によっては初めて聞く名前の奴のせいで、連帯責任が降りかかってくる。しかも、内容や程度によって、個人レベルで収まるのか?クラス単位か寮単位まで来るか、その時にならないとわからない。と言うのも、その辺の「匙加減」は教師次第だし、もっと言えば、「誰が怒っているか?」になる。教師にもカーストがあり、底辺のぺーぺーなら問題ないが、上層部であれば深刻だ。底辺の教師でも、「点数稼ぎ」で上層部に話を持って行く奴もいるので、要注意なのだが・・・。この辺の話は別の機会に書きます。

「キケイ」

人を見下す言葉。権力の弱い物に対して使う事が多かった記憶がある。今よりも差別に対して「緩かった」この時代でさえ使うべきではない「奇形」から取った言葉だと思われます。これだけいる生徒の中には、自分を上手く表現出来ない生徒や、生活に上手く対応出来ない生徒もいて、団体生活の足を引っ張ってしまう結果になってしまう事もあります。それが原因で、階や部屋に体罰が降りかかって来てしまうのです。何も娯楽が無い日生学園では、そんな張本人を簡単には許してくれません。「キケイ」呼ばわりされ、毒舌を吐かれ、場合によってはしばかれます。実はこういう事は日常茶飯事でした。対象は同級生や下級生で、こういった閉ざされた生活では、「カースト」が如実に表れます。実際の暴力だけでなく、言葉の暴力も日生学園では独特で強烈でした。私も当時を振り返ってみて、「麻痺していた」と思います。日常生活にあった全ての暴力を「普通」と思ってしまうのです。入学してから、毎日のように「洗脳」され続け、1年生が終わる頃には立派な「日生人」になっていました。

「下界」

日生学園の外を指します。山に囲まれた隔世の世界ですから、見ろ下す世界を「下界」と言ってました。私が最初に入った寮は天心寮と言い、学校内の建物の中で一番高い場所にありました。そして、私は3階の伊勢湾に向いてる部屋でした。途中で部屋替えがあったのですが、向かいの部屋の一番奥になり、正面には部屋奥の大きなガラス窓から山々が見え、横にある2段ベッド脇の窓からは、久居の街や津の街、四日市辺りまで見る事が出来ました。さらに天気のいい日は知多半島ぐらいまで見えていたと思います。真下に見える白山町の田んぼの中を走る車が見えたりしている中で、こっちでは地獄の生活をしている。これほどの「残酷感」を身をもって感じて泣きそうになる事が何度もありました。衝動的に「逃げてしまいたい」という気持ちになってしまうのです。皆さんはアメリカ・サンフランシスコにある、「アルカトラズ島」をご存じでしょうか?ここは小さい島ながら、刑務所しかありません。しかし、サンフランシスコの街から2.4㎞しか離れておらず、アルカトラズ島からはサンフランシスコ市内が目の前にある状態で、風向きによっては街の喧騒が聞こえてきます。でも、その間には潮の流れが速く、寒流の影響で夏でも冷たい海があります。泳いで渡る事は不可能で、何人も脱獄に失敗し、行方不明になっています。卒業して数十年経って初めて訪れて、「日生学園そのもの」と思ったものです。帰省があっただけマシかもしれませんが、休みが終わって、帰ってくる時、榊原温泉口駅に近づくと、近鉄電車から日生学園が見えるんです。もう絶望しかありません。「世界が違う」。だから普通の街や生活を「下界」と言ってました。

「サッカリン」

これは正式名称で、人工甘味料の1つです。誰がどのように持ち込んだのかわかりませんし、どうやって仕入れて来るのか不明ですが、何人もの人が持っていました。5㎜四方のかけら一つでも、かなり甘いので、牛乳とかに混ぜて飲んだりしていました。ただ、私が見たのは3年生の人達だけで、私が2年や3年の頃には、あまり見た記憶がありません。手に入れるのが難しいのか、日生学園内でも、一部しか出回っていなかったかもしれないですね。私は初めて見るものだったので、「ヤバい薬?」って思いましたが、先輩が分けてくれて使用した事があります。一般的には、日生学園の生徒しか知らないのではないかと思います。

ざっと書いてみましたが、他の言葉もたくさんあって、それらを全て書いてられません。と言うより、卒業して数十年、忘れている言葉が多過ぎなのが事実です。これ以外は書いて行く中で説明するとして、次回も引き続き残酷な日々を書いてみます。

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