ダウンタウン浜ちゃんの出身校、日生学園の謎の生活

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しばしばダウンタウンの浜ちゃんの出身高校、「日生学園第二高校」が話題にあがる事があります。 その度に、どんな学校だったか?どんな生活だったか?など、浜ちゃんからの発言や、時に当時の映像が出る事もあり、「とてつもないスパルタ教育の学校」である事は良く知られている事です。 そのどれもが、「嘘、偽りのない事実」なのですが、それは全体の数パーセントにしか過ぎず、実際の学園生活は「過酷」、いや、「地獄」そのものでした。

この記事では、日生学園第二高校卒業生である私が、当時の学園生活はどんなものだったのかを紹介してみようと思います。

日生学園とは?

第三高校まであった日生学園、中学校や幼稚園まであった!

日生学園は1965年に認可された学校法人で、現在も第二高校があった三重県白山町に本部を置いている。

1966年 日生学園第一高校を現在の三重県伊賀市に開校

1980年 日生学園第二高校を現在の三重県津市白山町に開校 

1982年 第二高校敷地内に、日生学園附属中学校、日生学園附属幼稚園を開校

1983年 日生学園第三高校を現在の兵庫県姫路市に開校

2015年 第一高校および中学校を、桜ケ丘高校および桜ケ丘中学校へ。 第二高校を青山高校へ。 第三高校を自由が丘高校へ学校名を変更しており、自由が丘高校に至っては2021年に休校になった。

創設した人って誰?

日生学園の創設者は青田強さんです。 「一流の人間を育てる」を教育理念とし、厳しい中で「全力」で頑張っていると、自ら光を放つような人間になり、やがて、世の中の一隅を照らす人となり「太陽うのような人を作る」。 というのが教育の基本にあります。 青田さんは自ら校長として、軍国主義のような生活に身を置き、実践してきました。 しかし、年齢と共に息子である進氏に運営を任すようになり、1984年だったと思いますが、お亡くなりになりました。 その後は第二高校敷地内に「古墳」のようなお墓が建てられました。 ちなみに、ご自宅も第二高校敷地内にあり、当時は「3億円」という噂がありました。

教師は?

教員は地元から通っている方と、生徒達の寮に寝泊まりを一緒にして日常生活を監督する「寮監」が主で、一部、敷地内に建てられた「教員家族専用住宅」が8世帯分ぐらいあり、そこに住んでいる教師がいました。

寮監は当然独身者で、教員の割合の7割ぐらいを占めていたと思います。やっている事が普通の学校と比べて尋常ではないので、若い人が多かったのと、1980年代は「口より先に手が出るタイプ」が主流でした。 ただし、それは「若い教師に多い」というのではなく、「全体的」である事と、「役職であろうと関係ない」です。 実際、ダウンタウンの浜ちゃんのテレビに出演した事がある「ボッキチ」こと若杉氏は教頭であったにもかかわらず、浜ちゃんから「しばかれまくった」と言われています。 

体罰が当たり前の時代であった事は確かですが、今思えば「度が過ぎた」のも事実で、教頭としての行動からご察しの通り、教師になって1年経ったかどうかの教師に、私もさんざんやられました。 後ほど書きますが、教師が生徒を従わせるために使う暴力は、当然、生徒内でも起こります。 上級生が下級生を従わせるための暴力は開校当時から日常的だったらしく、そのまま大人まで育つと、若杉氏のような、教頭という学園内外に影響を及ぼす立場であっても、暴力で従わせる人になるのでしょか・・・。 そうです、若杉氏は第一高校の出身者です。 それ以外でも出身者が何人かいて、彼らは全て要職についてました。

それに比べて、地元から通ってきていた教師は、まったくの「普通の人」でした。私の記憶では怒られた事は一度もありません。 もちろん、彼らも日生学園がどんなところなのか理解していたでしょう。その上で、分け隔てなく接してくれていたと思います。 圧倒的な差のある2種類の教師が存在していたのが、当時の日生学園第二高校でした。

どんな生徒がいた?

日生学園は全寮制なので生徒は全国各地から来ていました。北は北海道から南は九州まで。沖縄の人がいたかどうか、私自身聞いた事がなかったのですが、あの当時はいたかもしれません。 でも私のいた第二高校に関しては、1年生終了時に第三高校が開校し、大阪から西の出身者はほとんどそちらに移っています。 主に愛知県の人、岐阜県の人、静岡県の特に浜松近辺の人が第二高校全体の8割を占めていたのではないでしょうか? 

こんな学校なので、「やんちゃな人」が多いと思われがちですが、私の感覚で言えば「やんちゃな人」が6割、普通の人3.5割という感じでしょうか。 「やんちゃな人」と一括りに出来ないのが実際の所で、「喧嘩の強い人」、「ずる賢い人」、「たま~に悪さする人」を「やんちゃな人」と表現した場合の割合だと思って下さい。 それ以外の大部分は「普通」の人で言われた事を、少々文句も言いながらこなしている人です。ごく僅かではありますが、知的障害をもった人もいました。これは学年によっていたり、いなかったりしますが、そういう人も受け入れていました。

私が1年生の時、クラスが14ぐらいあったので、今の時代と比べると生徒数はメチャクチャ多かったと思います。 2年生になる前に、かなりの生徒が第三高校へ移りましたが、それでも9クラスあったので、1学年だけでも300名以上いた計算になります。 それに1年生、3年生、中学生もいたので、第二高校だけでも1000人以上生徒がいたと思われます。

「スクールカースト」をご存じの方もいると思います。 2010年頃からやたら耳にする言葉となりました。 これは学校内における「序列」的な格差を指す言葉で、頂点に君臨する者がその社会を支配するような様相を呈しています。 日生学園の場合、「スクールカースト」なる言葉は存在していませんでしたが、当時は既にこのシステムが浸透していて、入学初日から各クラスでは牽制合戦さながらでした。 

日生学園は全国各地から生徒が集まっているので、逆に考えれば「中学生の時の自分を知っている人がいない」という事になります。 つまり、やんちゃをしていたと本人が言えば、それが通ってしまうのも事実です。 しかし、本当に喧嘩ばかりしていた人もいるわけで、実際に喧嘩になればすぐわかってしまう事でしょう。 中には、その地域で名の知れた喧嘩自慢もいました。 1年生の初期は「あのクラスの誰々が強い」とかそんな話が多く、ごく稀に、誰にも見つからないようタイマン張っている人もいました。そうしてクラスのカーストが完成していきます。

とは言っても日生学園なので、まずは毎日を乗り越える事に必死になるのが1年生です。 そういう意味で同じクラス、同じ部屋の同級生はほとんど連帯感を持っていたし、総じて仲が良かったと思います。 

あなたはなぜ日生学園に?

いろんな人が入学してくる日生学園ですが、「なんでわざわざこんな厳しい所へ来るのか?」と皆さん思いませんか? いくらでも高校なんてあるのに、「なぜ日生学園なのか?」ですよね?

中学3年生になると、進路を決めなければなりません。 学力の問題、素行の問題といろいろ加味していく上で、上記のように喧嘩ばかりしていたり、補導された事があったりすると、例え勉強が出来ていても、高校側は受け入れてくれません。 内申書で却下になってしまうでしょう。

喧嘩はしていなくても、学校へ行かない、授業を受ける気がない、提出物を出さない等、これらも内申書の内容が悪過ぎて、受け入れてくれないでしょう。 また、学校へ来ていても授業を聞いていない、テストの点数が悪過ぎるというのも、内申書は悪くなるし、実際に受験をしても受かる事が難しいと思われます。

我々が在校していた当時は、そういった生徒がとても多かったです。中には「こんな学校に入ってみたい」という人もいたのですが、本当にごく稀です。

1980年前後は「校内暴力」があちこちで発生する時代でした。 学校の窓ガラスを割り、授業を妨害し、教師に暴力を振るい時にはバイクで校庭内を走る。 そんな事が全国で起こっていました。 

そんな時代に現れたのが日生学園です。 学校自体はもっと古いのですが、日生学園での厳しい生活によって、そういう人達が立ち直れるという事を示した事がバズる結果になったのだと思います。 また、内申書や成績を考慮しないのも、生徒数を増やす結果になっています。 私の時も入試は無かったのと同然でした。 「やる気あるか?」、「はい」で決まりましたので・・・。

メディアで紹介された、驚愕の学園生活

どんな生活してたの?

まず、1日の流れを簡単に書きます。

朝4:00起床 (水曜日は6:00、日曜日は7:00だったと思います)

点呼、その後着替え、室内の掃除、体育館への出発準備

体育館(日生学園では「道場」と呼ぶ)で「全力心行」 これは動画でも見られる、床を雑巾がけをする「行」。前屈姿勢で手をついて前から後ろに、手が伸びる限りで雑巾を往復させる。これを「全力」でする事により、心を「無」にするとされている。

1時間ほど「全力心行」をした後、一旦帰寮し、着替えと登校の準備

学校棟前の広場で国旗および校旗掲揚をし、食堂にて朝食、その後校歌を歌い授業へ。

授業終了後は部活動をしている人は部活へ、その他の生徒は帰寮しジャージに着替えて、校門までマラソン。

寮にて部屋の掃除や入浴をして、夕食のために食堂へ。 国旗・校旗の収納。 夕食後は校歌を歌う。

寮に戻ってからは部屋の掃除をした後、自習時間

22:00頃就寝

水曜日は「全力心行」がないだけで上記と同じ生活で、日曜日は午前中は寮にて自習時間。 食堂の運営が外部業者で休みのため、パンが配られる。 午後はその時によって時間がバラバラではあるが、昼寝がある。

こんな感じで、「自由」と言う言葉は存在しません。 故にテレビやラジオ、新聞、雑誌といった物はなく、お菓子も食べる事は出来ません。 

長い休みが終わり、寮に入る際は「荷物検査」が行われ、「違反物」は全て没収です。 また、手紙が来れば封を開けられ、中に違反物が入っていないか調べられます。 それでもどうにかして持ち込んだりするので、「いたちごっこ」なのですが、たまに違反物がバレたりすれば、たちまち所持品検査になります。

生活用品を親が送る事は許されています。 シャンプーやせっけん、下着類から参考書まで、「必要」と思われる物に限りますが、親もこんな厳しい生活をしている子供に、「たまには甘い物でも食べさせたい」と思うのでしょう。 たまに少量のお菓子が紛れ込ませる親や、そういう指示をする生徒もいます。

学校としては、それでは秩序が保たれないので、「子供に差し入れをしたいなら、自分の子供だけでなく、全校生徒に配れ」というスタンスです。 実際、一人の生徒の親から、ぜんざいやジュース、お菓子が全校生徒に配られた事が何度かありました。

とにかく「団体行動」でどこへ行くのにも、隊列揃えて、足並み揃えて走ります。 その時に声も出さなくてはいけなくて、掛け声は「ワッショイ」です。 全力心行の際も行っている側、周りにいる側も「ワッショイ」の掛け声を大声で出さないといけません。 声を出すのにも「全力」が求められます。

また、校歌を歌う際も大声で全力で歌わないといけなくて、腕も振ります。 この影響で喉がつぶれてガラガラ声になる人も多数いました。 力の限りに声を出そうとすると、自然と腕も振る事になるかもしれませんが、最早ここまで来ると「歌」ではなく、「怒鳴り」です。 でもそれが「全力を出している姿勢」に見られるのです。

衣服は学年ごとに色分けされたジャージと、授業を受ける時などに着る「通常服」、あとはパジャマしかありません。 厳密には帰省の時は専用のブレザーがあり、それを着る規則になっています。

男子は全員丸坊主です。 これはバリカンで2㎜に定期的に散髪します。 女子は「おかっぱ」です。 帰省が近くなると、街中を出歩く事を考えて男子は散髪を嫌がり、特に上級生は出来る限りパスしようとします。 中には違反物に含まれる4㎜や6㎜のバリカンのアタッチメントを持っている人もいて、散髪の際にはそれに付け替えていました。 少しでも丸坊主を目立たなくする、涙ぐましい努力です。

その帰省ですが、夏、冬、春の休みと年によって違いますが、5月とか10月に数日だけ帰る事が出来ます。 ただ、夏休みも20日ぐらいと短く、他の休みも他の学校より短めでした。 ただ、何故か卒業式は早くて、私は2月でした。

噂の「素手でトイレを掃除する」

テレビ等で日生学園の映像が流れる際、必ずと言っていいほど、トイレ掃除の場面があります。しかも素手で便器を洗っているのですが、実際なのか・・・。

本当です。 ただ、私が在学した3年間で、あそこまでしたのは数えるほどしかありません。これは朝に道場で行われる「全力心行」の延長版と私は捉えており、何か特別な事で「行」を必要とされる時とか、連帯責任を取らされている時ぐらいしか経験がありません。 もしかしたら、寮によって差があるかもしれませんが・・・。 

また、私の記憶では、「掃除」なので、ホースで水をトイレ中に大量に撒き散らしながらしていたので、使用されている便器ではあるものの、「水を流しながら素手で洗う」と言うのが正確でした。

寮の中はどうなっているの?

私が卒業した第二高校は、当時3つの男子寮と女子寮、野球部寮がありました。 男子寮に関しては、なんとな~く学力別に分かれていました。 というのも、この高校の学力はとてつもなく低かったと思います。 もちろん、これは総合的な意味であり、中には優等生もしっかりいました。 

そんな男子寮は3階建ての寮が2つと、4階建ての寮が1つありましたが、部屋の内部に差はほとんどありませんでした。 1つの階に4部屋ありますが、1部屋は48人部屋です。 

真ん中の通路を挟んで、4人が座れる大き目な机が左右にあり、その奥に2段ベッドが2つくっついている状態なので、この左右だけで8人おり、1つの「班」としています。 同じ並びが部屋の奥に向けて6つ並んでいるので、合計48人が生活しています。 当然ですが、壁とか仕切りは「一切ありません」。 部屋の外から見た時に、奥まで見渡せるようになっています。 ここに1年生から3年生まで混ざって、合計48人です。 こんな部屋が1つの階で4部屋あるので、190人がいるんです。 部屋には寮監が住む部屋も併設されていますが、そんなに寮監の数もいないので、使っている所といない所がありました。 平均して1つの階に1人寮監がいたと思います。 

そんな状態なので、プライバシーという言葉は存在しません。 それどころが、全ての学年がいるという事は下級生にとって、気が休まるのは寝ている時だけになります。 いや、実際は寝ていても気は休まりません。 理由は別の機会にでも書きます。

授業は?

そんな寮生活なので、授業を受けている時はクラスに分かれるから、気が休まると思いませんか? そんな訳ないです。 たま~に上級生が見回りに来る事があります。 それぐらいはいいんですが・・・。 大体、教師が教師ですから・・・。 先にも書いた通り、教師のうち7割は寮監です。 授業をする人、或いは担任は寮監である事がほとんどです。 先輩相手ではないにしても、気は抜けません。  

そんな教師陣に対して、「教員免許を持っていない説」は少なからずありました。 決定的な確証はありませんが、常に何人かの教師に対してそんな噂がありました。 授業を受けていても、漢字を読めなかったり、質問しても教えてくれなかったり、「ロボットなの?」っていうくらい、1㎜も教科書からはみ出した事を教えないとか・・・。 

とにかく、教師、というか寮監に関しては謎が多かった印象です。 おおよそ、「人を育てる」には程遠い感じでした。 この辺も機会があれば書きます。

脱走?脱獄?ある意味同じ。そして退学。

ダウンタウンの浜ちゃんが日生学園から脱走して、松っちゃんに迎えに来てもらい、うどんを食べさせてくれた・・・という話はテレビで何度も放送されています。 「脱走したらどうなる?」です。

こんな生活に耐えきれない人は多数いました。 そして計画的、或いは衝動的に「逃げる」行為へつながります。 脱走の9割以上は深夜、残りの少数は白昼です。 どちらにせよ、人里離れた山の中から脱走するので、危険も伴います。 でも、逃げずにはいられない人もいるのです。

逃げる理由は様々ですが、先輩からのいじめ、同級生からのいじめ、生活環境というのが大部分を占めます。 しかしここは日生学園。 そう簡単には逃げれません。

計画的であれ衝動的であれ、乗り越えないとならない「関門」がいくつもあります。 

  1. 誰にも感づかれてはならない
  2. 自分の足で山を自力で降りていく事
  3. 下の町で、なるべく誰とも出会わないようにする事
  4. 公共交通機関に乗る事
  5. 家に入れるか?

当然、周りの人に脱走の計画を知られたり、素振りを見せたりする事は出来ません。告げ口されたら終わりです。 平静を装い、いつ、どうやってバレずに寮から抜け出るか、綿密な計画と調査が必要です。 人が寝静まった深夜なのか? 昼間にさりげなく、それが普通の行動であるかの如く、自然に姿を消すのか? 他人の行動、学園の日々の行事まで計算に入れて計画する必要があります。 衝動的に逃げる場合、周りを見渡すと「たまたま」誰もいないとか、誰にも見られていない数分間があったという僅かな瞬間に、「魔が差した」的に行動してしまうのでしょう。

まずは山に入って身を隠し、学校に変化が無ければそのまま山を下りる事になりますが、深夜だと真っ暗の中、山を駆け降りるのはかなり危険です。 実を言えば「脱走ルート」なるものがあり、過去に脱走した人達が通った山道があります。 それを使えば校門を通っている国道165号線に出れるんですが、見つかりやすいので、国道は使えません。 そのため、国道を横切ってさらに山道を下るしか選択がありません。

山から下りても安心は出来ず、身を隠しながらの移動になります。 地元の方は日生学園の事を良く知っており、民家がまばらにしかない下の町でも、生徒が歩いているのを見たら「おかしい」と思って通報してくるんです。 私服なんて持っていないので、ジャージだし、丸坊主だし。 これが制服でも深夜だったらおかしいですよね。 なので、常に周囲を警戒する必要があります。

生徒がお金を所持する事は禁止されています。 ただ、隠し持っている人もかなりいました。 それは逃げるためではなく、帰省時に名古屋とかで解散後、食べたい物等をすぐに買えるように、という理由だったと思います。 「帰省旅費」と言うのが出るんですが(親が払っているお金の一部から)、常にギリギリしかもらえません。 団体列車が名古屋について、流れ解散になるんですが、その瞬間から自由なのに何も買えないのが嫌で、みんな少なからず隠し持っていました。

寮内では・・・というと、起床時まで誰にも気づかれない事も多く、そのため朝起きたら「点呼」が絶対になります。 逃走側としてはそれまで時間の猶予があるので、より遠くに逃げる事が出来ますね。 でも、夜中になっても寝ない人がいたりします。 消灯された室内で、懐中電灯で違反物の漫画を読んでいる人もいれば、ただ単にトイレに起きる人もいます。

部屋の奥は非常口としてドアがあり、ガラス張りになっているので、場合によって外を動く影が見えるんです。 あんな山の中だと、本当に「月明りって明るい」って思います。 また、「部屋の一番奥」がある事の格好の場になります。 そうです「リンチ」です。 正直言えば、少なからずありました。上級生が下級生を、或いは同級生同士。 声は出せないので、体を叩く、低く思い音が部屋の奥から聞こえた事が何度かありました。 そんな最中、外を誰かが走る影が見えれば・・・。

また、寮監も慣れているので、生徒からの報告だったり、下の町から目撃情報が入れば、「消防士か?」っていうぐらいの速さで車に乗り込み、猛スピードで山を下りて行きます。 こんな山の中の生活、しかも休みでもやる事がない寮監達は、9割9分車を持ってました。 それらが下の町を含めた道を走り回り、逃げた生徒を探すんです。 まるで「警察24時!!」です。

それと同時に寮では緊急点呼です。 何時であっても起こされて点呼です。 もし、自分の班(通路を挟んだ左右の4人机で1つの班)であれば、「事情聴取」です。 とにかく連帯責任なんです。 他に駅にも寮監が張り付き、朝一番で親に連絡が行きます。 寮監としては、無事に確保、或いは家に着けばひと安心なのでしょう。

さて、家にたどり着けたとして、親は家に入れてくれるか?という問題があります。 日生学園に子供を入れる親は、ほとんどが感化されているので、自分の子供が逃げ出した事を快く思わない親も多かったみたいです。 「親にしばかれた」、「学校に帰ると言うまで家に入れてくれなかった」等々よく聞きました。 親としては、学校に対して絶対的な信用で入学させて、子供がしっかりした、立派な人になってくれる事を期待している訳で、逃げ出した子供に対して、失望や落胆があるのでしょう。

各家庭でどんな話があったにせよ、一度は学校に帰ってきます。 頭を下げて、もう一度やらせて欲しいと言う親の横で、不貞腐れている生徒もいますが、親は必死です。 土下座する人もいました。

で、教師はどうするか?と言うと、説教です。 生徒ではなく、親にもです。 そんな光景を寮監室で何度も見ました。 「寮監室」とは寮の玄関入ってすぐにあり、寮内放送施設や寮内の雑務を行う部屋で、すべての寮監も、ほとんどの時間をここで過ごします。 たまに用事があって寮監室に行った時、こういう場面に出くわす時があるのですが、場合によっては、なんとも腹立たしい気持ちになります。

というのも、脱走した理由によっては「連帯責任」を取らされているケースがあるからです。 下級生の面倒をちゃんと見ていないから、同級生なら、手助けをしてあげられていなかったから。 そんな理由で延々と全力心行させられたりしているんです。 

脱走した本人と親は、教師から「親が甘やかすと、里心が出て来る」とか、「こんな生活も耐えられない人間は、どこへ行っても続かない」、「うちでは面倒見切れない」などと説教されます。 ただこれは「伏線」で、親の「そこを何とか・・・」、「もう一度チャンスを」を引き出すためで、最終的には「もう一度頑張ってみろ」となります。 

ただ、親が子供の精神状態を見て、「もう無理」と判断する場合もあります。 人は千差万別なので、誰もが続けられるとは限りません。 子供に無理強いさせたくない親もいます。 そうなると退学に話が進んでいきます。 次の転入先まで決めて来る親もいたし、とりあえず家に戻す親もいます。

学園生活を続ける事になった生徒は、すぐ生活に戻る生徒もいれば、「寮内謹慎」になる生徒もいます。 そこは寮監や上層部との話で決まる事だと思いますが、「素行」に問題がある生徒は謹慎です。この謹慎、脱走しなくても受ける事があります。 違反物を持っていた、いじめをした等、理由は様々ですが、授業は受けずに肉体労働させられる内容がほとんどでした。

しかし、先に書いたように、脱走してすぐ生活に戻っても、連帯責任を負わされた人がいるので、多少、肩身の狭い思いをするのは事実です。 わかっていても、この生活が嫌で脱走する。 そんな生徒が絶えないのが日生学園の中身なのです。

まとめ

簡単に書くつもりでしたが、かなり長くなってしまいましたが、いかがでしたか? もちろん、まだまだ書き足りません。 令和の世の中では考えられない事が、この当時は平然と行われていた事に驚いた事でしょう。 作り話にも思えるこれらの事が、全て事実なのですから・・・。 しかし、ダウンタウンの浜ちゃんも私も乗り切って卒業しています。 

私が卒業した年、自殺者が出ました。 それが発端で、メディアで取り上げられ、叩かれ、ついには国会答弁にまで達します。 補助金をこのような学校へ出してもいいのかどうかの議論でしたが、それよりも事件性の高い体罰や、いじめが日常的に行われていた事に、世間の目が向けられ、否が応でも学校の運営方針を変えざるを得ませんでした。

今では、その当時の面影もない、普通の高校になった日生学園。 今後、このような学校は二度と現れないでしょう。 良かったのか悪かったのかわかりませんが、日生学園に在校していた私は、この地獄の生活を体験し、それはそれで貴重な体験となりました。 また機会があれば、もっと「闇」の部分を紹介出来たらと思っています。

日生学園
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熟年夫婦と年頃の娘の家族で、使ってみたり、調べたりした事を雑記にしたブログ。あと、アメリカ旅行、国内旅行の記録など・・・。

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